武者野勝巳


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将棋を広める棋界のマリオ君です

 昭和29年1月1日群馬県館林市に生まれました。館林は徳川五代将軍・綱吉が治めたこともある城下町で、分福茶釜伝説茂林寺と、つつじが岡公園でわずかに知られる北関東の地方都市です。利根川と渡良瀬川に囲まれた水の豊かな地域で、良質な小麦が採れることから、川魚とうどんの里でもあります。
小学校は正田美智子さん(現・皇后)と同じ、館林市立南小学校(現・第二小学校)で学びました。正田家は館林の地場産業の発展に大きく貢献した名家で、館林駅の西口にくっついて正田醤油(株)日清製粉(株)を配しており、私は市の中心地に道路を隔てた小学校とほぼ同規模の敷地で存在している正田家の塀を6年間毎日眺めて通いました。中学は館林市立第一中学校。中学の一年先輩に宇宙飛行士の向井千秋(旧姓・内藤)さんがおり、同時期ともに生徒会の役員をやりました。高校は群馬県立館林高校を卒業。高校時代の一年後輩にオカリナ奏者の宗次郎がおります。
 将棋は4〜5歳の頃から知っていたのですが、あくまでも趣味にすぎず、中学・高校と生徒会長を歴任し、将来は岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんのように清廉な考古学者になることを夢見る優秀な?生徒だったのですが、昭和46年、17歳でアマ名人戦の群馬県代表となったことで『東海の鬼』といわれた(故)花村元司九段に「大学行きながらでも将棋の修行は出来るから」と後押しされ、入門。18歳の遅〜いスタートで、将棋プロを目指すことになりました。 
この年の秋にプロ棋士の養成機関である奨励会に、4級で入会しました。49年に初段、54年に四段と、ごく平均ペースで昇進しトーナメントに参加して給料の貰える一人前のプロ棋士になりました。花村一門の修業については近代将棋誌に掲載されたエッセーをお読み下さい。師匠が亡くなった後も、一門は毎年花村旅行会に参集する仲良し兄弟です。
 その後も順位戦で昇級して五段になり、昭和55年に王位戦リーグ入りするなど、トーナメントプロとしても、けっこう有望な存在かと思っていたのですが、58年に20代の新人棋士の身でありながら(社)日本将棋連盟の理事に選ばれたことで、これ以降は『将棋普及の担い手として生きる』ことを決心しました。
 連盟理事は58年から62年まで務め、この任期中、総務担当理事として千日手の規約改正、女流育成会と研修会の設立、タイトル戦海外対局の実現、「将棋の日」イベントの恒例化などを行いました。夢は「日本一のティーチングプロ」と呼ばれるようになること。
スーパーマリオに似ている体型で、ドングリ目にダンゴ鼻が特徴であることから、いつしか教室の子供たちから『マリオ先生』の愛称で呼ばれるようになりました。この名の親しみやすいイメージは気に入っており、ネットの世界では好んで「マリオ武者野」もしくは「マリオ」のハンドル名を用い、NHK講師のときにこの「マリオ武者野」の愛称を商標登録しました。
 平成6年9月、パソコン通信ネット局「ネット駒音」を開設。ときおり開かれるオフラインミーティングを楽しみにしています。
 平成7年12月には自分の活動を広げるため駒音コーポレーション(株)を設立。
 この会社は後に(株)棋泉と商号変更し、棋譜データベースソフトの「棋泉forwin」を中心に展開。名人戦、竜王戦、王将戦、王座戦、棋王戦など7大タイトル中5棋戦のインターネット中継を担当するなど、将棋タイトル戦の情報発信の仕組みをドラスチックに改革する原動力となりました。
 平成8年1月よりはNHK教育テレビ「将棋講座の講師」を「マリオ武者野の電撃大作戦」を題材に務めました。
 平成9年4月、フリークラスに転出し、いくつかの著書を執筆し、ソフトではキングレコード「マリオ武者野の超将棋塾」や、富士通「ザ・プロ将棋」シリーズを制作しました。
 現在は(株)棋泉を中心に据え、地方の小規模商店のインターネット事業のサポートや、まざまな出版社の編集支援も行うなど、出身母体である将棋の枠を飛び越えた事業も展開しています。